市川準監督のこと〜



一生懸命に考えた。

初めて市川監督に会った時のことは・・・実は良く覚えていない。
私がアシスタントだった頃で今から25〜6年前のこと。
最初の頃監督は私のことを「〜〜(当時の会社)の若いこ」と呼んでた。

そして名前で呼んで貰えるようになった頃、あるCMの仕事でご指名をいただいた。
市川監督がオーディションで小劇場系の役者を年齢問わずたくさん見たいと言う。
遊民社、第三舞台、ジテキン、カクスコ、山の手、エロチカ、七曜日、キャラメル、鳥獣戯画等・・・、
2日に分けて総勢80名位の大がかりのオーディションをやった。
CMで使ったキャストは3〜4人で、ほとんどの役者はある「映画」で出演している。

・・・・・ここだけの話。



市川監督には得意な魔法の言葉がある。
CMでも映画でも諸事情というものがあるのだが、市川監督の要望が
はるかにそれを上回っていてプロデューサーも私も声をそろえて
「監督、それは無理です!」という場面が多々あった。
そんな時決まって監督が言った台詞が
「市川がそう言ってると言って・・・・。」

・・・誰に?

だけど、ほとんどの場合市川監督の希望通りになった。
・・・・市川監督だけが使える魔法の言葉。



市川監督は本当に有名無名問わず、多くの役者さん達から慕われ愛されていた。
皆市川監督が大好きだった。

彼らが言うには、市川監督は役者の一番良いところを撮ってくれるんだそうだ。
主役でも、短いたった1カットの端役でも演じる者の気持ちを大切にしてくれる・・・。
特に秒数が決まってるCMは、カットごとの演技が短くて気持ちを作れないまま
不完全燃焼で終わってしまうことが多い中
市川監督は1カット長芝居で・・前後アドリブ入れて・・たっぷり間を取って・・
カットがかかるまで続けて・・・と長回しで撮ってくれる。
役者にとってこの充実感、緊張感は役者冥利に尽きるんだと言う。

もちろん言うまでもなく、市川監督のあの愛すべき人柄も
皆が市川監督信者になる最大の魅力のひとつだったのだけれど。



現場に必要な市川監督愛用のものがあった。

撮影朝市川監督が現場に来ると先ず<コーヒー>だった。
砂糖・ミルク入りのホットコーヒー。
次にだいたい「<胃薬>ある?」
そして<タバコ>・・・「これと同じの2つ買ってきて。」
これらが揃うとリハーサルが始まる。

ぼそぼそしゃべる監督には<トラメガ>が欠かせない。
スタジオでは<市川監督専用マイク>があった。
誰が用意したのか金ぴかのマイクに皆で笑った。

撮影が進み佳境にさしかかると<アイス>タイムになる。
甘いモノが大好きだった市川監督。
撮影現場ではアイスで編集中はケーキだったそうだ。

ある時から・・・気分転換は目に入れても痛くない以上に溺愛してた
<ひびきちゃん>との電話。監督が別人:じいじに変身した。
あの頃はひびきちゃんのおかげで撮影が早く終わってスタッフ一同幸せだった。

そして助監督:<スエちゃん>と<カイちゃん>
彼らは公私ともに市川監督のいつも一番近くに居て、
映画にCMにととても忙しい市川監督の支えだった。
撮影現場だけでなくいつでも、どこでも監督の手足となり、頭脳となり、
ストレス発散の為もぐらたたきのもぐらとなり、、、
なくてはならない市川監督の助監督だった。
ウルトラセブンのお助けカプセル怪獣ミクラスとウインダム
みたいな・・・・・。




また一生懸命に考えた。

最期に市川監督に会った時のことも・・・実は良く覚えていない。

今回のリレー日記は小泉佐枝さんです。
小泉さんは長年作曲家・「はやしこば」さんのアシスタントとして、
こばさんが出演される市川の現場には必ずいつもいらしていた方です。


市川監督との最初の出逢いは、

病院で死ぬということ」の調布の日活撮影所のセットでした

作曲家のアシスタントだった私にとり、

市川監督は雲の上のような存在の方で・・・

お仕事でお会い出来るなんて嬉しくて嬉しくて・・・

興奮のあまり、

現場では顔がトマトみたいに真っ赤っかになっていた自分を思い出します。

「東京夜曲」では喫茶店の場面の時に、

市川監督から突然通行人にとのご指名を受けて、

生まれて初めてエキストラという貴重な体験をさせて頂きました。

その時も、とても緊張してしまい、

頭が真っ白状態になってしまった私です。

都会的でお洒落でユーモアがあり、

映像と音楽とが、絶妙に融合している市川ワールドには、

とてつもない魅力を感じています。

既存の日本の映画監督には全くない斬新さは、

本当に貴重な存在でいらしたので、もっと沢山の市川作品が見たかったです。

今となっては叶わぬ夢となってしまいましたが、

市川監督が次回の撮影予定だった「ヴィヨンの妻」を是非観たかったです。

私は映画が好きなので日本映画をよく観ます。

市川作品を知ってしまった者として、何を観ても物足りなさを感じてしまい、

この作品を市川監督なら、どの様に描いていたかという想いが常に頭を横切ります。

市川作品のワンカット全てがいつもいつも市川テイストなんです。

本当に素晴らしい作品を沢山残して頂き監督には感謝の気持ちでいっぱいです。

心から、『ありがとうございます』と申し上げたいです。

昨年秋に、幸子夫人と待ち合わせをしていた

ホテルのティーラウンジの伝票Noが0919だったこと、

幸子夫人にメールさせて頂いた直後のSuicaのレシートのNoが0919だったこと・・・

市川監督は天国から、

幸子夫人のことをいつも見守っていらっしゃると

改めて実感して涙が止まりませんでした。

幸子夫人の中には、今でもずっと市川監督は生き続けていらっしゃると確信しております。
 
小泉佐枝    

「小さな思い出」


パリに行った。
パリは6年ぶりで、あいにくの雨は7月なのに寒さを感じた。


7/13にエッフェル塔の近くのパリ日本文化会館で、
市川準監督作品「つぐみ」と「トニー滝谷」が上映されたからだ。


日本映画を紹介する一環として市川監督を追悼する企画で、
6月から7月にかけてほぼ全作品の上映という大掛かりなものである。
幸子夫人たちは6月に参加されすでに帰国された。
一緒にと誘われていて、ためらってのことである。


友人らとオペラ座の近くのビストロで昼を済ませ、
エッフェル塔に向かって歩き出したが思ったよりも遠くて困った。
歩きながらエッフェル塔が見え隠れする姿はまるで、
「大人はわかってくれない」の冒頭のシーンのようで楽しくもあった。
「たどんとちくわ」で市川さんがかの映画のラストシ−ンを
再現されていたのを憶えている。


間違ってエッフェルを通り越したりして、
結局2時間近く歩いたろうか、30分前にようやく辿り着けた。



せめて一服と建物の裏側を探してカフェに座ったものの、
電車の高架線が近くて、車の多く通る交差点だし、
狭い歩道は人の往来がやたら多いし、それも奇妙で見慣れない外人ばかりで
さらに疲れが増す。


ふと「あゝこういう場所で市川さんの映画が見られるのだなぁ」と思いに耽った。
アフリカの人やイタリア人やドイツ人やアラブ人や中国人や、
貧相な外人だらけの街の一角で映画は見られるのかとしみじみした。


そう思うと行き交う他国の人々を「人を観る歓び」と思えて見えてくる。
市川さんならば「町並みに切なさがありますかね」と微笑まれたかもしれない。


「つぐみ」の上映が始まり海へとカメラが滑り出す辺りで、
気持ちの高まりからか落ち着かなくなり気分がすぐれなくなった。
コンタクトレンズもずれてしまい、いけないと思ながら結局は中座した。


トイレで気分を直して再度入場しようとすると、
黒人のスタッフに咎められたので諦めた。


遥々きて情けない、ロビーの椅子に腰かけて気落ちした。


今市川さんは会場の中だろうと想像した。
瓜生はダメですねと不満に思われているだろう。
市川さんになじられると本当に辛くなる。
ぼくのダメなところを見透かされているような気になる。


パリまで来て怒られたくないと外へ向かいながら、
主催者のアルデユイニさんと助手のルモンドさんに挨拶しておこうと思いたった。


受付で助手のルモンドさんをお願いしたら、
少ししてアルデュイニさんが現れてくれた。


ただ深々と頭を下げた。


40半ばの中肉な方で、申し訳なさそうになさる物腰が
繊細で優しい方だなと思えた。


上映会の開催のお礼を伝え、
「パンパース」のCMの上映の感謝を伝えた。


私は生前に市川さんとはお会いできなかったと、流暢に日本語で喋られた。
以前に何処かの映画祭でお見かけしただけ、
「クレ−プ」が一番好きです、
締め切りの原稿があって今は時間がない 、
明日の夕方に食事をしたいと誘っていただいた。


日本から来たことへの気遣いと感じたし、
幸子夫人からの配慮でもあろうとも思えた。
翌日友人と会う約束もあったので遠慮した。
そうですか残念ですと申し訳なさそうにされていた。
仕事に戻ることを促すと会釈をされてまた申し訳なさそうに二階へ立ち去られた。


それからロビーでまた時間を過ごした。
今度はすこし贅沢な時間に感じた。


見ると入り口に元子ちゃんの姿が見えた。
続いて量也君と日々季ちゃんの姿も見えた。


彼らはロンドン経由でパリに来た。
量也君は若い頃にロンドンに留学をしていたとかで、
懐かしいラーメン屋に立寄ったけど美味しくなかったと笑っていた。
そういえば市川さんがご家族みなさんでロンドンに旅行されて帰国された時に、
息子がいろいろと案内をしてくれて助かりましたと、
楽しそうに喋ってらしたのを思い出した。
量也君から世話をしてもらえたのがとても嬉しかったんだと思う。


日々季ちゃんが僕の横にチョコンと座ってくれた。
デジカメを見せて「リスがいたよ」と教えてくれた。
「公園にいたんだよ」「小さいんだよ」 
ロンドンの公園で見かけた野性のリスがよほど気にいったようだ。


すっかり大きくなった。
8歳になり3年生になった。
態度も落ち着いてお姉ちゃんになった。


顔をみたら市川さんによく似ている。
ジイジに似ているねというと俯いて不服そうにした。
周りからよくジイジに似ていると言われるのがきっといやなのだろう。 


量也君は昔市川さんの映画の音楽を作ったことや
タイトルアニメーションを作ったことを教えてくれた。
ギャラをもらってないと笑っていた。
元子ちゃんは日々季ちゃんと一緒に映画に出演したことがある 。
薬師丸ひろ子の親戚の役だったと思う。
ぼくは多くのエキストラの1人で出演した。
その映画の編集をすすめるたびに、
「7秒出てます」「3秒になりました」と教えてくれる監督がいた。


その撮影は学校で行なわれた。
講堂にエキストラを300人集めての撮影だった。
昼ごはんは校内に敷いたブル−シ−トの上で食べさせられた。
見た目も安そうな、300円くらいのお弁当を渡された、苦笑した。


市川さんが中庭の奥から歩いて来られる。
両手を後ろ手にしてすこし猫背で、
人たちにニコニコと笑顔を振りまいて楽しげに歩いておられた。
それは映画作りのために集まってくれたエキストラたちへ
感謝を表そうとされているおつもりだったと思う。
安い弁当以上に苦笑させられた。


そんな映画監督は他にはいない、
世界のどこにもいないと思う。  


三人が座った後ろの席についた。
トニー滝谷」の上映の前にもう一度「パンパ−ス」のCMを流してくれた。
ルモンドさんがムッシュリュウが日本から来ているとアナウンスしてくれた。 
ムッシュリュウ以外はフランス語でわからなかったが光栄だった。 
オムツの中も汗ばみますでウフフとウケていて楽しかった。 


広川さんの映像の素晴らしさに驚かされた。
宮沢りえさんの繊細でしなやかな演技に感激した。
何度も見ているがパリという長い距離が映画を新鮮に見せてくれた。


最後にトニ−が電話をするシ−ンに泣けてきた。
市川さんの遺言のように思えた。
見ると前に座った元子ちゃんも泣いていた。


死者の影に怯えるな
うつろうな 喪失するな
孤独になるな
向こう側へ
もう1つの向こう側へ
まだ間に合うはず
人に興味をもて
愛にひるむな 愛を示せ
ひたすらにひたすらに
自分の映画へひたすらに向かうのだ


市川さんから感じる言葉がぐるぐるとアタマの中を駆け巡った。
今もなお多くのことを教えてくれると思うと胸にこみあげてきた。


外は薄暗い雨だった。 すでに9時を回っていた。
一緒にご飯を食べたかったが店の見当がなかったので別れた。
彼らはタクシ−でホテルに戻り、僕は地下鉄で帰った。


2日後ようやく晴れた。
セ−ヌ河を遊覧するフェリ−を試してみた。


シテ島からサンルイ島を過ぎてUタ−ンする。
ル−ブルの横を進みイエナ橋を越えてまた戻ってくる。
右手にエッフェルが現れる、近づくほどに船の窓いっぱいに拡がる。 


外人だらけの人いきれでくたびれてしまって、外のデッキへと逃れた。
一人がいい、孤独になりたい、放っておいて欲しいと思った


川の風が気持ちよく顔に吹きかかる。


遠ざかるエッフェルに市川さんの影を感じた。
エッフェルは失くならないでいつまでもそこに見えていて、やさしい市川さんを思った。


楽しい思い出になった。
小さくてささやかだけれど、大切な思い出になったと知った。



◎[パリ上映会だより]

パリ上映会だより。<2012・6月26日初日のこと。>


昨日までの雨と、
午前中のはっきりしなかった空が、どんどん青く澄みわたって行く。
嘘のように夏らしい暑さも取り戻していく。
時計の針は19:00を回り、外は白夜である。

パリ文化会館1Fの会場(こちらではB1)入口では、長い列が出来ていた。
パリ在住の日本人・パリの方。御年配の方も多い。
最初の上映作品『東京マリーゴールド』が果たして受け入れて頂けるのかしらと、
内心ドキドキしていた。途中で帰られてしまったらどうしょう。

今回は普通の上映会と少し異なった演出がある。
会館・映画担当のF・アルデュイニ氏の計らいで、市川のCMを本篇の前に流しましょうという趣向である。
観客の方は全く知らないサプライズ。
大喜びで賛同し、スポンサー・関係者さんのご好意を頂き、今日を迎えたのではあるが、
果たして自身の、CMの付きの映画上映を市川はなんて思うのだろうか。

埋め尽くされた観客の前、担当者に導かれながら、慣れない私の心は千々に乱れ、
心ここに在らずである。
ご来場の感謝とともに、これからお目にかけるCMは本篇と関連が有るのだが、無いのです。
などと、なんだか、不思議な説明をしてからの公開となった。

市川が長い年月シリーズで演出していたCM味の素「ほんだし」は、
懐かしい美しい音楽にのせ、樹木希林さんと、田中麗奈さんの親子のやりとりを写しだす。
時間の経過を持った数タイプが流れ、、本篇へと、スムーズに移行していった。
何の問題もなかった。余りの自然さに拍子抜けしてしまう位。
「同じ演出家が手掛けているのだから、違和感があるわけがないんだわ・・・」など、
変な納得をして、一観客と化した。

鑑賞後の皆さんがどうやら希林さん・麗奈さんの親子をCMとは分けて観れていたことを確認出来て胸をなでおろした。

本篇も含め、お二人の親子はなんて素敵な女優さんたちなんでしょう!
お褒めのお言葉も聞くことができて、いいスタートとなった。

今日はお二人や陰のスタッフから沢山の援護射撃をいただいたのだなぁ〜と、
嬉しく、そしてとても有難かった。
                     市川 幸子

「このシーンは、100回テストやりますからね」

それは「トニー滝谷」の撮影でのことだった。
トニー滝谷」は市川さんの映画のなかでも、最も予算のない映画に属する映画だ。予算がないということは撮影日数に反映され、この映画も16日ぐらいで撮ったのではなかったかと思う。撮影日数が少ないということは、1日に撮る分量が多くなるということである。
 市川さんが「100回テストをやる」と言った場面は、B子(斎藤久子)が亡くなったA子(小沼英子)の衣裳室に初めて入る場面である。
市川さんは続けて「早川クン、覚悟してください。今日、1日かけてこのシーンを撮りますから」と言った。その日の予定は全部で5シーンぐらい消化しなければならなかった。「覚悟してください」というその言葉の裏には、その後のスケジュールを何とかして下さい、という事だなと理解して、「…分かりました」と答えたのだが、時々、市川さんの言うことが冗談なのか本気なのか分からないときがある。市川さんは、普通あまりテストをしないのだ。「テスト行きますか?」と聞くと、「いや、回して(本番)いきましょう」という監督だ。だから、この時も半ば冗談のつもりで聞いていたのだが、「このシーンは、この映画で一番重要なシーンなんです。僕が一番撮りたいところなんです。ですから100回テストをやって、しっかり撮りますからね.……りえちゃんに言ってきます」と言うので、どうやら本気らしいと思いつつ、市川さんが宮沢りえの控え室に向かうので、どういう会話がなされるのか確認するためにも市川さんの後を追った……。

撮影は……アッと言う間に終わった。
1日かけるどころか、100回テストやるどころか、段取りもテストもなしのぶっつけ本番だった。
約6分30秒のワンシーンワンカット。1発OKだった。
緊張感のある撮影は、すばらしいシーンとなった。

 結局、何回もテストを重ねて行くうちに、芝居が段取りに見えてこないか、という不安からだったのだが、ぶっつけでやるとは思わなかった。

そしてこの日は、結局、スケジュール通りに1日の撮影が終わった。
スケジュール通りに終わってしまったのが不服なのか、市川さんは「早川クンの思うツボですね」と言った。

トニー滝谷」は、撮影期間中、1日も雨が降ることなく撮影が中止になるということはなかった。 
 横浜の空き地にステージと呼んでいた約7m×7mの舞台には天井がなく
雨が降ったら逃げる(他に撮影する)場所がなかった。
 当初、ステージを建てる場所として市川さんが希んだ設定は、例えば、東に海が見えて、西は山。北に住宅街が見えれば、南にビル街。そういうような場所だった。背景を借景としてシーンごとに撮影しようと考えていた。しかし、なかなか都合良くそのような場所が見つかるものではなかった。設定に、なんとか近いところが見つかってもステージを建てる広さがなかったりした。予算があれば、地方へと足を伸ばすことも出来たかも知れないが、それは叶わないことだった。横浜の空き地が見つかったのもクランクイン間近だった。市川さんの理想とは、ほど遠かったかも知れないが、諸々の条件を考えると、撮影行為をする上では格好の場所だった。


 翌年の8月、市川さんから手紙が来た。A4判の大きな封筒だ。何だろうと開けてみると、そこには、イタリアの新聞(PARDO NEWS)と新聞記事のコピー、そして市川さんの手紙があった。ロカルノ映画祭での「トニー滝谷」の審査員特別賞、国際批評家連盟賞、ヤング審査員賞、3賞受賞の報せだった。
 初めて市川さんと仕事をしたのは映画ではなくてCMだった。15秒、30秒のCMの撮影にロケーション3日、スタジオ1日というスケジュールで、「フィルムは原稿用紙です」と言いながら2キャメでガラガラとフィルムを回し(途中でカットを掛けず、回しっぱなし)なんとも贅沢な撮影だと思った。
 その撮影中だった。市川さんに1本の電話が入った。モントリオール映画祭で監督賞を受賞したという連絡だった。市川さんは、はにかんだ様子で「僕の映画がモントリオールで監督賞を受賞したらしいんですよね」と嬉しそうに言った。
その姿が、「トニー滝谷」の受賞の手紙を見ながら、なんとなく思いだされた。

「たどんとちくわ」「トニー滝谷」「あおげば尊し」「春、バーニーズで」市川作品に関わったすべてだ。
 それぞれの作品に事件があり、想い出がある。
 そういえば「ざわざわ下北沢」なんていうのもあった。市川さんの現場を冷やかしついでに、1日だけエキストラで行ったことがあった。バーのセットが組まれ、エキストラはその店の客だった。隠れるように奥に座っていると、「早川クンは、ここに座って下さい」と言われた場所は、原田芳雄の真ん前だ。そのうち「このセリフを言って下さい」とセリフまで言わされ、挙げ句の果ては、「早川クンは、この店の常連ということでこの店の撮影の時はいつもいることにしましょう」って、勝手です。結局3日も下北沢に通うハメになったのだが、殆どがカットされていたのではないかと思う。

そして……

2008年9月15日に、市川さんの次回作「ヴィヨンの妻」の打ち合わせと挨拶を兼ねて近代映協の里中さんを訪ねた、その翌日だったと思う。
市川さんから電話が来た。
「里中クンに会って来たらしいですね……どうですか……そうですか……いよいよ始まりますか……」

 その年の5月のことだった。市川さんから「秋に映画が入るからよろしくお願いします」という電話があった。その後、メールでシナリオが送られてきた。感想を聞かせて欲しいとのことだった。6月になって改訂稿が、そして製本された準備稿が送られてきたのは7月の末だった。
 市川さんが太宰を映画化したいという話を聞いたのは、もう何年も前のことだ。

「……いよいよ始まりますか……」と市川さんは言った。
オレは、いろいろ聞きたいことがあるんですけど、と言うと、
「……来週の月曜日打ち合わせしましょう」

これが、最後の会話となってしまった。
そして、月曜日を待たず、市川さんに会った……。

未だに、市川さんの携帯の番号を消せないでいる。
もう電話をかけることもないのに。
しかし、消してしまったら、本当に市川さんがいなくなったような気がしてしまうからだ。
 時々、非通知で電話が掛かってくるとドキッと、する。
まさか、そんな訳ない。非通知でかけてくるのは、市川さんだけで充分だ。

                                                          
                              早川 喜貴

リレー日記も9回目となりました。

今回はプロデューサーの井上文雄さんです。監督からは「ぶんちゃん、ぶんちゃん」と呼ばれていました。
ぶんさんの肩には「神輿タコ」ができているほどのお祭り男。
映画「病院〜」の実景にもありました、浅草神社三社祭は今年700年にあたるそうです。
今年も、より気合いを入れて、お神輿を担ぐぶんさんの姿があるはずです。



「市川さん」                      

                                    井上文雄

通常は監督を「監督」と呼ぶが市川監督は「市川さん」だ。

イケイケ助監督で俺が現場は回していると大きな勘違いしていた時代に市川さんと出会った、作品は「つぐみ」。
撮影所体制末期で自らを活動屋と名乗る猛者たちに理不尽な精神論と体力優先の映画作りを睡眠時間と交換に酒を糧に学んだ。映画屋は無頼漢とか異端児とか枠から外れることばかりを好んだ時代。
先輩から次回作はCM界の大御所が監督だと言われた。
「本当の映画の撮り方を教えてやれよ」すでに対立構図が出来ていた。



初顔合わせ、会議室に猫背の大柄の市川さんが現れた。
「市川です…」聞こえるか聞こえないかの挨拶に拍子抜けした。
人懐っこい目と穏やかな語り口は今まで接してきた監督たちとは大きく違っていた。
打ち合わせは脚本の感想から好きな映画の話に変わりに右へ左へブレながら「つぐみ」がやらかしそうな行動はどんなことかを語り合った。
頼まれもしないのにその夜に買ったばかりのワープロで自分が思う「つぐみエピソード」を朝までかかってまとめた。
そして翌日に手渡した。
市川さんは少し驚いていたが「読んでみるよ、ありがとう」なんだか判らないがとても楽しかった。
戦闘モードどころか一夜にして市川さんの魅力?人柄?人身術?にやられてしまった自分がいた。



その後「たどんとちくわ」「竜馬の妻とその夫と愛人」のチーフ助監督、TVドラマ「春、バーニーズで」をプロデューサーでやらせてもらった。
作品中は無理難題をとぼけた顔でさらっと言い放ち、膨大な改訂脚本を毎朝渡されダンドリを狂わされた。
ただ「それが市川さん」と言う事で対応するしかなくまたそれをクリアしていく事が快感となっていった。
しかしたまにみんなが「市川さん」ではなく「監督!」と呼ぶ時があった。
要求が限度を超したのだ。
そんな時、市川さんは本当に淋しそうな顔をするのでみんなは覚悟したように要求解決に向かって動き出した。

市川組の日常劇場。



作品製作中ではなくたまにお会いしてグダグダ飲んでいる時が一番楽しかった。
俺の反応を探りながら最新企画の話を興奮気味に熱く語る市川さんはいつも自慢げだった。
究極に削ぎ取られた脚本は感覚的で市川さんの思いすべてを把握出来ず、反応が悪いとか問題点を指摘するとあからさまに不機嫌になりひどい時は「もういいよ」と帰ってしまった。
数日後にいつもの声で「あ〜市川です。電話下さい」と留守電が入る。
折り返すと「あそこ直したから読んでみない、面白くなったよ」判ります?これが市川さん、素敵です。
会うたびに言われた言葉、いつも言ってくれた言葉、俺にとっての市川さんの愛情表現。

「ぶんちゃんの撮った映画、早くみたいな」

本当にすみません、間に合いませんでした。
だけどずるいです、早すぎますよ、市川さん。

畜生!またダンドリを狂わされた。「監督!」

ijoffice2012-04-27





HOMMAGE JUN ICHIKAWA, UN PEINTRE DE TÔKYÔ

市川準監督特集上映 -市川準・東京を見つめたシネアスト-


2012年6月26日〜7月27日の間、フランス・パリにて
市川準監督作品14本が特集上映されます。

このパリでの上映は、国際交流基金主催「映画がとらえた日本150の視点」の一環として組まれた特集です。
上映が決定した市川準監督作品14本は
「BU・SU」「会社物語」「つぐみ」「クレープ」「東京兄妹」「東京夜曲」「たどんとちくわ」
大阪物語」「ざわざわ下北沢」「東京マリーゴールド」「トニー滝谷」「春、バーニーズで」
あしたの私のつくり方」「buy a suit スーツを買う」以上です。

これまで再上映の機会がなかった「クレープ」も上映されますので、
パリ近郊の方、足を運んでいただける方、ぜひお楽しみください。

フランス語での詳しい情報は、パリ日本文化会館HPよりご確認ください。
http://www.mcjp.fr/francais/cinema/paysages-du-cinema-japonais-389/paysages-du-cinema-japonais



●主催 国際交流基金(ジャパンファウンデーション) パリ日本文化会館
●会場 パリ日本文化会館国際交流基金)、小ホール(128席)
 MAISON DE LA CULTURE DU JAPON À PARIS
 FONDATION DU JAPON
 101 bis, quai Branly, 75015 Paris
 ACCUEIL / INFORMATION 01 44 37 95 01 www.mcjp.fr
● 期間 市川準監督特集は、2012年6月26日〜7月27日まで

● 入場料等の詳細は、パリ日本文化会館HPよりご確認ください。
http://www.mcjp.fr/francais/cinema/paysages-du-cinema-japonais-389/paysages-du-cinema-japonais