「このシーンは、100回テストやりますからね」

それは「トニー滝谷」の撮影でのことだった。
トニー滝谷」は市川さんの映画のなかでも、最も予算のない映画に属する映画だ。予算がないということは撮影日数に反映され、この映画も16日ぐらいで撮ったのではなかったかと思う。撮影日数が少ないということは、1日に撮る分量が多くなるということである。
 市川さんが「100回テストをやる」と言った場面は、B子(斎藤久子)が亡くなったA子(小沼英子)の衣裳室に初めて入る場面である。
市川さんは続けて「早川クン、覚悟してください。今日、1日かけてこのシーンを撮りますから」と言った。その日の予定は全部で5シーンぐらい消化しなければならなかった。「覚悟してください」というその言葉の裏には、その後のスケジュールを何とかして下さい、という事だなと理解して、「…分かりました」と答えたのだが、時々、市川さんの言うことが冗談なのか本気なのか分からないときがある。市川さんは、普通あまりテストをしないのだ。「テスト行きますか?」と聞くと、「いや、回して(本番)いきましょう」という監督だ。だから、この時も半ば冗談のつもりで聞いていたのだが、「このシーンは、この映画で一番重要なシーンなんです。僕が一番撮りたいところなんです。ですから100回テストをやって、しっかり撮りますからね.……りえちゃんに言ってきます」と言うので、どうやら本気らしいと思いつつ、市川さんが宮沢りえの控え室に向かうので、どういう会話がなされるのか確認するためにも市川さんの後を追った……。

撮影は……アッと言う間に終わった。
1日かけるどころか、100回テストやるどころか、段取りもテストもなしのぶっつけ本番だった。
約6分30秒のワンシーンワンカット。1発OKだった。
緊張感のある撮影は、すばらしいシーンとなった。

 結局、何回もテストを重ねて行くうちに、芝居が段取りに見えてこないか、という不安からだったのだが、ぶっつけでやるとは思わなかった。

そしてこの日は、結局、スケジュール通りに1日の撮影が終わった。
スケジュール通りに終わってしまったのが不服なのか、市川さんは「早川クンの思うツボですね」と言った。

トニー滝谷」は、撮影期間中、1日も雨が降ることなく撮影が中止になるということはなかった。 
 横浜の空き地にステージと呼んでいた約7m×7mの舞台には天井がなく
雨が降ったら逃げる(他に撮影する)場所がなかった。
 当初、ステージを建てる場所として市川さんが希んだ設定は、例えば、東に海が見えて、西は山。北に住宅街が見えれば、南にビル街。そういうような場所だった。背景を借景としてシーンごとに撮影しようと考えていた。しかし、なかなか都合良くそのような場所が見つかるものではなかった。設定に、なんとか近いところが見つかってもステージを建てる広さがなかったりした。予算があれば、地方へと足を伸ばすことも出来たかも知れないが、それは叶わないことだった。横浜の空き地が見つかったのもクランクイン間近だった。市川さんの理想とは、ほど遠かったかも知れないが、諸々の条件を考えると、撮影行為をする上では格好の場所だった。


 翌年の8月、市川さんから手紙が来た。A4判の大きな封筒だ。何だろうと開けてみると、そこには、イタリアの新聞(PARDO NEWS)と新聞記事のコピー、そして市川さんの手紙があった。ロカルノ映画祭での「トニー滝谷」の審査員特別賞、国際批評家連盟賞、ヤング審査員賞、3賞受賞の報せだった。
 初めて市川さんと仕事をしたのは映画ではなくてCMだった。15秒、30秒のCMの撮影にロケーション3日、スタジオ1日というスケジュールで、「フィルムは原稿用紙です」と言いながら2キャメでガラガラとフィルムを回し(途中でカットを掛けず、回しっぱなし)なんとも贅沢な撮影だと思った。
 その撮影中だった。市川さんに1本の電話が入った。モントリオール映画祭で監督賞を受賞したという連絡だった。市川さんは、はにかんだ様子で「僕の映画がモントリオールで監督賞を受賞したらしいんですよね」と嬉しそうに言った。
その姿が、「トニー滝谷」の受賞の手紙を見ながら、なんとなく思いだされた。

「たどんとちくわ」「トニー滝谷」「あおげば尊し」「春、バーニーズで」市川作品に関わったすべてだ。
 それぞれの作品に事件があり、想い出がある。
 そういえば「ざわざわ下北沢」なんていうのもあった。市川さんの現場を冷やかしついでに、1日だけエキストラで行ったことがあった。バーのセットが組まれ、エキストラはその店の客だった。隠れるように奥に座っていると、「早川クンは、ここに座って下さい」と言われた場所は、原田芳雄の真ん前だ。そのうち「このセリフを言って下さい」とセリフまで言わされ、挙げ句の果ては、「早川クンは、この店の常連ということでこの店の撮影の時はいつもいることにしましょう」って、勝手です。結局3日も下北沢に通うハメになったのだが、殆どがカットされていたのではないかと思う。

そして……

2008年9月15日に、市川さんの次回作「ヴィヨンの妻」の打ち合わせと挨拶を兼ねて近代映協の里中さんを訪ねた、その翌日だったと思う。
市川さんから電話が来た。
「里中クンに会って来たらしいですね……どうですか……そうですか……いよいよ始まりますか……」

 その年の5月のことだった。市川さんから「秋に映画が入るからよろしくお願いします」という電話があった。その後、メールでシナリオが送られてきた。感想を聞かせて欲しいとのことだった。6月になって改訂稿が、そして製本された準備稿が送られてきたのは7月の末だった。
 市川さんが太宰を映画化したいという話を聞いたのは、もう何年も前のことだ。

「……いよいよ始まりますか……」と市川さんは言った。
オレは、いろいろ聞きたいことがあるんですけど、と言うと、
「……来週の月曜日打ち合わせしましょう」

これが、最後の会話となってしまった。
そして、月曜日を待たず、市川さんに会った……。

未だに、市川さんの携帯の番号を消せないでいる。
もう電話をかけることもないのに。
しかし、消してしまったら、本当に市川さんがいなくなったような気がしてしまうからだ。
 時々、非通知で電話が掛かってくるとドキッと、する。
まさか、そんな訳ない。非通知でかけてくるのは、市川さんだけで充分だ。

                                                          
                              早川 喜貴