「生涯、市川組」 砂原由起子


「東京より大阪の方がいいでしょ?」市川監督が新人の私に話しかけてくれた最初の言葉。

東京での初めての撮影。緊張して「はい」と一言だけしか答えられなかった。それが23歳の冬。

監督は新人の私にいつも話しかけてくれた。

毎日、雑用ばかりでお茶汲みだった私に「すなの入れるコーヒーはおいしいね、こういう子が現場にいるといいね。」と監督。

この何気ない一言で、私は本当に助けられた。

監督はいつもこう言った。「すなちゃん、市川ブレンドを一杯」

やがて私がチーフになってもカメラ前でカチンコをうっても、他の誰かが入れようとすると「砂が入れますから」と言って、
いつもニコニコして飲んでくれていた。

「砂はどう思う?」衣裳の話、美術の話、ロケ地の話。監督はいつも私の意見を聞いてくれた。

はじめは、なかなかうまく伝えれなかったけど、それでも監督は耳を傾け続けてくれた。本当に、幸せと思える時間だった。

数年経つと、編集時は必ず監督の横に座って手伝った。

「このテイクおもしろいですね」

「砂がこのテイク気に入ってるから、これにしよう」

クライアント試写のとき、監督のイスが壊れて

「砂、これどうしたらいいの?」と言われたけど、私は笑いが止まらなくて、 でも、試写だから笑えなくて監督も笑いをこらえて 、

私も必死でイスをもとに戻そうとしたけど、なかなかできなくて、あげくの果てに、 ”ドン!!!!” という、とてつもない音をたて、監督と私だけクスクス笑っていたこともあった。

そんなある日、

「砂ちゃんで映画を撮りたいんだけど」

と監督から電話があった。

27歳の秋だった。

「僕が演出しますから、砂ちゃんの自然のままを撮りたいんだよね」 と言ってくれた。

撮影中は監督と東京を撮影してまわった。

すごく、緊張したけど監督のそばにいれば安心する。 不思議な感覚だった。

録音したセリフが川の音で消えてる部分があり、それを撮り直しに東宝スタジオへ向かった。

それが28歳の秋。

アフレコ作業の後、監督は 「砂ちゃん、一緒に二子玉川まで帰ろうか」 といってくれた。なかなかタクシーがつかまらなくて、少し歩いた。

その日は何故か、長く監督と過ごせた。タクシーがやっとつかまったと思ったら、駅が工事していて、グルグルまわった。

その間に、監督は私の将来を聞きはじめた。

当時悩んでいた私に 「自分のやりたいことを信じてやるしかないんだよ」その監督の言葉で、一歩でも二歩でも進める気がした。

その4日後、「市川監督が亡くなられた」ーーーーーー。

撮影中の私のもとにその訃報は届いた。

監督がいつか言っていた。

「気分のいい日は、自由が丘から歩くんですよ」

お通夜の日、大雨の中、私は駅から歩いた。この角を曲がれば監督に逢えるかもしれない。 そんな気持ちがあったのかもしれない。

皮肉にも私の出演した映画の編集を完成させた、その日に亡くなった。

スタッフは映画が完成して、最後まで気分良くしていたからと、言ってくれた。唯一のも救いだった。

監督の書斎です、と通された場所には、監督がいるようで、まだ信じられなかった。

その完成したばかりの映画のチラシが監督の机の上においてあった。

カレンダーには 「buy a suit 本編集、MA」 仮編集のDVD。

東京国際映画祭にでることになっちゃって。頼んでないのに(笑)」

嬉しそうに、照れくさそうに、あの日言っていたなぁ。

もっと、もっと言葉にして顔をみて伝えたいことがあったのに。
もっと、もっと、監督のお話を聞きたかったのに。
もっと、もっと一緒に笑っていろんなものを作りたかったのに。

「毎年、あの映画撮ろうね。」あの日、そう言ってたのに。

世界中に何億人いる中で監督に出会えてことは奇跡だと思う。

「よーーーーい、スタート」「カットーー」
「あんまり良いから、もう一回」

もう、あの声は二度と聞けないんだって、もう二度と会えない人なんだって、
あの日、ようやく理解できた。
涙が止まらなかった。

一生、市川準監督を忘れない。
生涯、市川組。
いまでも、市川さんのことがめっちゃ大好きです。