市川監督のこと


病院で死ぬということ



私は、初めてプロデュースする劇映画の監督を探していた。
ある日、「市川準」という固有名詞が浮かんだ。



新橋の第一ホテルの喫茶室であった。
「ぼくは映画を趣味でやってるんだよね」といきなり言われた。
でも、少し震えながら身構えながらの発言であった。
心の中で、ムカッとしながら「そんなことおっしゃらずに」と説得した。
「ある人と相談してから、決めていいですか」と別れた。
(後からの話から想像するに、ある人とはたぶん奥さま)
ある人と相談して、やってくれることになった。



末期ガン患者の最後の日々を描く素材だから、私は観客をわんわん泣かせるつもりでいた。
脚本を市川さんが書くことになり、言われた。
「里中さん、お涙頂戴だけはやめましょうね」
「ウッ」と思ったが、最初の稿をみてから直していけばいいやとも思った。
数日後、日本映画界初のA4のコピー用紙に横書きされた手書きの初稿が届いた。
「なんだこりゃ」と思いながら読んだ。お涙頂戴はやめた。



16mmで実景の撮影が始まった。
「フィルムは4〜5本もあれば」が4日間程でテレビの2時間もの一本分使われた。
結果30数時間のドキュメントを見る破目になった。ウソツキの始まりだった。
彼の映画は知っていても、つくりかたは知らなかった私が悪いんだけど、遅かった。



映画が完成してからは「里中さん、これで大丈夫でしょうか」と聞いてくる。
「監督。もう一億ウン千万使いきっちゃったんだから」と返した。
いつも完成直後は極端に落ち込み、公開日にむけて徐々に自信を取り戻すパターン。
取材が続くと「同じ話ばかりさせられてイヤなんですよね」と愚痴る。
ヒトラーはウソも百万回つけばホントなるといってた」と尻を叩いた。
初日の舞台挨拶は、いつも震えながらで「なに話してたか、わからない」としょげる。
「ウブな新人みたいでよかったですよ」と心にもないことをいい励ました。



私にとって市川準とは、シャイで、繊細で、嘘つきで、図々しくて、いうこと聞かなくて



彼が亡くなった夜にビールとマイルドセブンとライターを買い禁煙をやめた。