ボクのなかのイチカワサン
                                照明技師・中須 岳士

市川さんの事を書く前に少しだけ、自分のことを書きます。
中学生の頃に写真に目覚めたボクは、高校に入って8ミリフィルムの自主映画に出会います。
その時の高校の先輩に山浦さんという方がいらっしゃって、学生とは思えない完成度の高い作品を創っておられて、ボクはリスペクトしていたのです。
高校卒業後、上京し映画の専門学校を経て照明助手をはじめて2年ほどたった頃、だったかな?市川さんの映画『つぐみ』の現場に就くことになりました。
同じ空気なんです。先輩の山浦さんの周りに漂っていたカリスマ的な空気と。
とっても優しいまなざしで、キャストを、スタッフを、そして現場を見つめている仕草は、本当に映画を愛してるんだなぁと感じました。
そういえば、市川さんは「監督」と呼ばれる事を嫌がっておられました。
最初は、〔恥ずかしさ〕なのかと思いましたが、気がつくと市川さんは、スタッフを呼ぶ時もかならず、「照明サン」とか呼ばずに名前で呼ぶのです。「中須サン」みたいに。
もっと偉そうにしていても良いのに。カントクなのですから。
でも、一助手のスタッフが監督に名前で呼ばれると、それは嬉しいものです。
「この監督の為に!」と思って頑張ります。
・・・だから、市川組では皆が「市川さん」と呼びました。
市川組のスタッフはみんな、そんな市川さんの人柄に、そしてつくりあげられる《市川ワールド》に、魅せられてやめられなくなっていくのでした。

その後1年半位たった後だったか、照明技師は違う方だったのですが『ご挨拶~佳世さん』でまたご一緒することになったのですが、その時も照明助手の下っぱのボクを覚えていて下さって、とっても嬉しかったのを覚えています。
それからは沢山の作品をご一緒させていただく事になります。

病院で死ぬということ』・・・セットの裏でスタッフのすすり泣く声が聞こえていました。
『クレープ』・・・エル・スールのような映画でしたね。
『東京兄妹』・・・大雪の日に、ランニングシャツで冷や奴を・・。
トキワ荘の青春』・・・トキワ荘のオープンセットが台風で飛ばされて・・。

そして『東京夜曲』では撮影の小林さんの絶大なバックアップがあってボクはついに照明技師にさせてもらいます。
照明に時間がかかりすぎて演出する時間が余りなかったことをボクが詫びたら、「大丈夫ですよ。画が良いですから」と優しく答えて下さいました。
その後はずっと技師としてお付きあいさせていただきます。

『たどんとちくわ』・・・合成が大変でしたね。
大阪物語』・・・暑かったですね。
ざわざわ下北沢』・・・路地裏をリヤカーでかけずりましたね。
江分利満氏の優雅な生活』( TV )・・・初めてのハイビジョン。
東京マリーゴールド』・・・[ほんだし]CFから派生した映画でした。
竜馬の妻とその夫と愛人』・・・東宝の特大ステージで泥んこになりましたね。
トニー滝谷』・・・暑かった。これも。でも凄い評価をいただきましたね。
あおげば尊し』・・・重いテーマを、皆でアタマを抱えながら・・。
『春、バーニーズで』( TV )・・・ギャラクシー賞をいただきましたね。
あしたの私のつくり方』・・・HDカメラで40分も長まわしをしましたね。

いつだったか、市川さんがおっしゃった言葉が物凄く嬉しかったのを覚えています。
相米組でカメラマンが変わっても照明技師がいつも同じヒトな様に、ボクの映画ではずっと中須くんでお願いしますね。」
 …もう、飛び上がる程嬉しかったです。
コマーシャルも、もう、数えきれない程、沢山の作品でご一緒させていただきました。
おかげさまで、「市川さんのスタッフだったから」というお墨付きで、今も仕事のオファを頂く事がよくあります。
市川組はボクに、一人前の照明技師として世間に認めてもらえる機会を与えていただきました。
そして、『あおげば尊し』のクランクイン前にボクの親父が急逝してからは、勝手に心の中でボクは親父のつもりで慕っておりました。

今でも、照明をかんがえるとき、「市川組ならこうするかな?」と思い描き乍らプランニングする事がよくあります。「こういう事したら、市川さん、どうおもうかな?」・・とか。

ボクにとって、いや、多分、市川組のスタッフはみんな、今の仕事場で《市川組》を引き継いでいると思います。

・・・ありがとう。市川さん。これからも、見守っていて下さいね。